国内にいながら実際に管理人が実行した語学(英語)学習法、スクール、教材

私の英語修得奮闘記 その1

 

<語学劣等生の英語修得奮闘記>

 

  英語を初めて意識したこと
 

 

私は学校を卒業して旧財閥系の純日本企業に就職しました。

 

友人や先輩の中で外資系企業に就職する連中もいましたが、「就職面接は
英語でのインタビュー」と聞いて、恐れおののいて、はなから行く気はありませんでした。

 

しかし、会社に入ると、同期入社の何割かは海外畑に配属され、話を聞いて
みるとなにやら華やかな世界でした。
(後で、それは錯覚だったと気づきましたが、若い頃は特に「隣の芝生が青く見える」ものです)

 

私が配属されたのは完全に国内マーケットでしたので、ミーハーな私はとても
羨ましく感じて、会社人生の中で一度くらい海外系の仕事をしたいと思うように
なりました。

 

そこで、まず入社3年目くらいの時に会社の海外研修・留学制度に応募しようと思って、
始めてTOEICを受けてみたのですが、案の定惨憺たる成績でした。
(500点未満でした/海外勤務にはだいたい710点以上必要といわれています)

 

最近ではそんな制度を残している会社は少数派かと思いますが、当時はいろ
いろな会社で若手社員を海外研修に派遣することが行われていました。 

 

会社でのテストを受けるかTOEICのスコアを提出するかの選択だったのですが、
とりあえず毎年会社のテストを受け続けてようやく5年くらい受け続けた後に
やっと選考に通り、研修に行かせてもらうことができました。
年齢は30歳を超えていました。 

 

  一念発起してからの勉強法

 

その間、アルク社の「ヒアリングマラソン」
を受講しつつ、勤務先の近所の駅ビルに入っていた英会話教室に週1回通っていました。

 

ここは、毎回色々な講師が交互に担当するプライベートレッスンでしたが、
結局テキストのようなものは無く、日々の生活で有ったことを英語で報告し、
それを先生が正してくれる、といった雑談形式のものでした。

 

講師は全員ネイティブの白人でしたが、日本が好きで住み着いてしまった人や
日本人と結婚している人、日本に布教に来ている牧師さんなどさまざまな人が
いて、ある意味面白かったです。全員アルバイトでした。

 

体系的な学習ではなかったですが、英語で会話する楽しさがわかったのは
この時期です。

 

講師は、出来の悪い生徒(私のことです)が必死にめちゃくちゃな英語を使って
日々の出来事を報告するのを、かなり想像力を駆使して理解しようとしてくれ
ました。

 

この状態を3年くらい続けましたが、漸く話すことが苦痛でなくなってきました。

 

日本の英語教育は中学から大学まで約10年間英語を学ばせるのに、本当に
話すことができない「机上英語」になってしまっています。

 

最初は話すことが苦痛でした。語学はそんなものではないはずですよね。

 

 

少しずつですが、会話スクールに通い続けているうちに外国人講師といろいろな
話しをするのが楽しくなってきました。
これで、英語に対する「マインドブロック」が外れたということだと思います。

 

「私と英語 その2」 に続きます)